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日本タイムマネジメント普及協会
提言
 2011年秋の提言 〜裁量労働制から自律労働制への転換のススメ〜

 

<裁量労働制って聞いたことありますか?>

1988年10月に前職の会社を退職し、翌日から総合コンサルタント事務所を開設。
丸23年が経過しました。早いものです。もうじき四半世紀ということになります。
今回は今後の私の活動の方向性にも大きく関わる問題を提言として取り上げたいと思います。
私が独立する前年の1987年に、この国で初めて「裁量労働制」なるものが法制化されました。
今回はこの法制化された「裁量労働制」にモノを申すことになりますので、とりあえずはアウトローということになります(国の法律に喧嘩を売るわけですから)。
当時の私は、この法制化された「裁量労働制」なる言葉すら知らない状況でした。
提言ではありますが、難しい行政や法律的な用語をわかりやすい言葉に私の独断と偏見で解釈し論を展開したいと思います。
1987年に最初に導入された裁量労働制は「専門業務型裁量労働制」と呼ばれています。
当初法律で指定された専門業務は十数職種でしたが、その後追加され現在は20職種ほどあります。
具体的には弁護士、会計士、中小企業診断士などの士業やデザイナー、プロデューサー、ディレクター、記者、テレビ、ラジオの取材や編集者、システムコンサルタントなどが該当します。
法律では、これらの職種の人たちは労働法で言うところの「管理、監督者のもと働く」という定義に合致させるのが難しいので、各自の判断で仕事をし(裁量労働)、働いた時間は「みなし労働時間」とすることにより、残業代の法定基準、規範を逸脱しても労働法違反には問われないということになっています。(ただし、労使の合意作業などの手順、手続きが必要です。)
その後財界からの要望により、2000年からは「企画業務型裁量労働制」も法制化されました。
経営企画担当、営業企画担当、金融商品開発、新商品・技術の研究開発などが追加されました。
更に法律としては成立しませんでしたが、2007年の年初には危うく「ホワイトカラーエグゼンプション(労働時間適用除外)」なるとんでもない法律が成立の一歩手前まで行くことになりました。
見ている限り労働側からの圧力ではなく経営側からの圧力でこの20数年間推移しているのは歴然です。
この問題と同根にある事件がその後2008年に発生します。「名ばかり管理者」の問題です。


 

<裁量労働制を進める厚生労働省の取組み>

厚生労働省労働基準局監督課のホームページを引用し、2000年の法改正の背景を紹介します。
「経済社会の構造変化や労働者の就業意識の変化等が進む中で、活力ある経済社会を実現していくために、事業活動の中枢にある労働者が創造的な能力を十分に発揮し得る環境づくりが必要となっています。
労働者の側にも、自らの知識、技術や創造的な能力をいかし、仕事の進め方や時間配分に関し主体性をもって働きたいという意識が高まっています。
こうした状況に対応した新たな働き方のルールを設定する仕組みとして、事業運営上の重要な決定が行われる企業本社などにおいて企画、立案、調査及び分析を行う労働者を対象とした「企画業務型裁量労働制」が2000年(平成12年)4月より施行されましたが、平成16年1月1日より、この制度がより有効に機能するよう、その導入にあたり、労使の十分な話合いを必要とすること等の制度の基本的な枠組みは維持しつつ、同制度の導入・運用についての要件・手続きが緩和されています。
関係労使におかれては、本制度の趣旨及び内容を理解され、創造性豊かな人材が、その能力を存分に発揮しうるよう自律的で自由度の高いフレキシブルな働き方の実現に向けて、労働時間管理のあり方を見直し、本制度の導入についてご検討ください。」
私には、この案内文や「企画業務型裁量労働制」で創造性豊かに主体的に仕事ができるとは到底思えません。
成果の測定が困難な業務の労働時間を法制度でカットするための方便としては大変よくわかるのですが、とても活力ある経済社会構築にはつながりそうにありません。
現実的には潜在的な鬱患者が三人に一人とも言われる状況や不謹慎な表現と思われた方には、心よりお詫びしますが、先の震災の死者、行方不明者を超える毎年の自殺者の数とかを考えると何かが間違えているとしか思えません。
その間違えている何かの一つが私の専門分野でいえば「裁量労働制」ということになります。


 

<裁量労働制の問題点〜仕事のしくみで捉えると・・〜>

ではどうして「裁量労働制」が間違いなのかを、説明します。
「裁量労働制」なる言葉は誰がいつなんのために作ったかは現在調査中ですが、言葉の意味としては、労働法に定義する労働が「管理監督者のもとで働くこと」とする定義に対し、この定義に当てはまらない職種の労働者が社会の進化・高度化の中で生じたので、その人たちは「管理監督者のもとではなく、各自の裁量で働くこと」も労働と定義し、併せて勤務時間などの捕捉が難しいので「みなし労働時間」なる概念もセットで運用することになっているようです。
簡単にいえば、「裁量労働制」で働く人の賃金は実労働時間ではなく「みなし労働時間」で支払うと言うことです。
働く現場を観察すると一見、上司、管理者の監督を離れて仕事を進めているような人がたくさん存在します。
それこそ、厚生労働省のホームページではないですが、仕事の進め方や時間の使い方を主体的に判断、運用している人たちです。
この一見、各自の判断で主体的に仕事をしているように見えるのが「裁量労働制」の根拠といっても良いでしょう。
しかし、私はこの根拠はありえないと考えています。
すべての仕事の工程を他人と関わることなく自分だけで処理できるのであれば、裁量労働制は成り立つかもしれませんが、実際にはそんな人は一人もいません。
他人が絡まない限り仕事になりません(仕事の社会性・組織性)。
仕事とは他人(お客様も含めた)と為し遂げる共同作業と言っても良いと思います。
例えば、時間の使い方を主体的に決めると言っても、お客様に頼まれた見積や、上司に依頼された報告書の作成を、お客様や上司の意向を無視して自分勝手(ある意味主体的です)に納期を決めることができる人は居ないでしょう。
頼まれた仕事の納期を自分勝手に決めるには相当なエネルギーが必要です。
例え相手を無視して自分の意向で作成すれば、人間関係に甚大な影響が出ることは間違いないことです。
つまり、その仕事の「はじめ」は自分の主体的な判断で決められますが、納品、期限などの「おわり」は自分の主体的判断だけでは決められません。
仕事の相手との合意形成が必要です。
多くの場合、相手がお客様であったり、上司であったりの場合は、ほとんどの場合、自分の主体的な判断ではなく、相手の判断(要望)に委ねる(従う)ことになります。
別の表現で説明すると、どんな仕事にも共通する「仕事のしくみ」という視点で見れば、すべての仕事は、「はじめ」などのやっている本人が主体的に決める要素と、「おわり」などの本人と仕事相手との合意形成(一般的には力関係での押しつけになるケースが多い)で決まる要素がセットになっているということです。
つまり前者は個人の問題で、後者は組織(社会)の問題と捉えることができます。
ひとつひとつの仕事、企画書作成とか、調査・分析作業とかのBPR的(ビジネスプロセスリエンジニアリング)な視点で仕事を見れば、個々の仕事が裁量的に見えるかもしれませんが、その仕事を形作っている「はじめ」や「おわり」などのどんな仕事にも内在している要素で考えると、「はじめ」などは裁量的ですが、「おわり」は非裁量的ということになります。


 

<ホワイトカラーの生産性は個人と組織の関係性に大きく左右される>

別の視点で考えてみましょう。
仕事や労働は個人が社会参加するためのひとつの形態です。
そのほかに、社会参加する形態としては恋愛、結婚などのプライベートなものから、サークル参加やボランティア参加などのプライベートと仕事の中間系のようなものもあります。
また買い物なども社会参加の一形態です。
それらは個人と社会(個人の集合体)をつなぐ架け橋(媒体)と捉えることができます。
架け橋ですから両岸があります。
橋の片方は個人という岸に接岸し、もう片方は社会(集合体)に接岸していると考えると良いと思います。
個人の岸に接岸しているのが「はじめ」です。
ですから、「はじめ」は個人でコントロール(裁量)できるわけです。
ところが「おわり」は集合体の岸に接岸しているといえます。
これは個人が勝手にコントロール(裁量)できないことを意味しています。
このように仕事は個人と社会をつなぐ媒体ですから、仕事の要素の中に個人と社会に関わる中身が入っている(内在)と考えることができます。
ところが同じ社会参加への手段である恋愛などでは、様相が大きく変わります。
恋愛は二人揃って社会に参加しようという行為とも言えます。
だから「いつも一緒にいたかった」という「M」の歌詞も生まれるわけです。
恋愛は各自がコントロールしていた「はじめ」を二人共同でコントロールすることになります。
多分そのことが束縛感の温床にもなっているのだろうと思います。
変な言い方ですが、「裁量労働制」はないが「裁量恋愛制」はあるということだと思います。
というか恋愛は間違いなく各自の「裁量」で行われるものです。
しかし、その恋愛ですらスタートは裁量的ですが、悲しい結末を裁量的に迎えることができる人の割合は半分以下です。
多少話は脱線しましたが、「はじめ」は個人が管理し、「おわり」は個人の集合体であるチームや組織で管理しているといえます。
はじめとおわりのマネジメントの善し悪しで仕事の成果が決まるといえます。
これはホワイトカラーの生産性は個人の力量だけでなく、その個人が身を置くチーム、組織の力量とも深く関わっていることを意味しています。
ホワイトカラーの生産性は個人と組織の関係性のなかで変化すると言っても良いと思います。
それが仕事の真の姿だと思います。
それを全て個人の責任(生産性は)とみなす裁量労働制は明らかにロジカルエラーを起こしています。


 

<一刻も早く間違いをただす時>

現在多くのホワイトカラーの生産性向上の取組みは「BPR(ビジネスプロセスリエンジニアリング)」の手法で行われています。
この手法は、「ビスを持って三歩歩く工程は、二歩分をカットすることができるので、二歩をムダとりしましょう」という例に代表される取り組みです。
これはトヨタさんが開発した手法として有名です。
この取組みで「改善」という漢字は「KAIZEN」という英語になってしまいました。
この手法をホワイトカラーの生産性に持ち込んだのが「BPR」です。
しかし、モノづくり現場では大きな成果を出しているこの手法もホワイトカラーの現場では皆目成果が出ていません。
にもかかわらず今日も日本中いや世界中のホワイトカラーの現場でこの取り組みへエネルギーが投下されています。
そろそろ見切りを付けたほうがよいだろうと思います。
はっきり提言させていただきます。即刻「BPR」の取組みはおやめください。
時間とお金の無駄、さらには社員のモチベーションまで低下させてしまいます。
モノづくり現場では今までどおりお取り組みください。
しかしホワイトカラーの現場は即刻中止です。理由は簡単です。
モノづくり現場とホワイトカラー現場は仕事の構造が本質的に異なっています。
具体的にはモノづくり現場は「ムダとり」の対極にある「大事」が24時間、365日不変です。
それは高額な投資をして作り上げた「製造ライン」があるからです。
一方ホワイカラーの現場はどうでしょうか?
あなたは「今日の大事な仕事」を即答できますか?
あなたの上司は?
あなたの部下は?
あなたのお客様は?
多分ほとんどの人が即答できないはずです。
つまり、ホワイトカラー現場では、モノづくり現場で24時間、365日不変な大事が日替わりになっているということです。
そして多くの人がその大事を把握しないまま仕事や業務改善をしているというとんでもない状況にあるといえます。
これでは成果が出ている方が奇跡、不思議です。


 

<BPRと裁量労働制>

さて、この即刻やめたほうが良いBPRと裁量労働制は親戚、家族のような関係だと私は考えています。
これを説明するのにちょっと物理学の力をお借りします。
物理学はニュートンの万有引力にはじまり、アイシュタインの相対性理論、そして湯川博士がノーベル賞を受賞した中間子などの素粒子物理へと進化してきました。
天体の動きなどを説明するところからその天体を形作っている個々の物質の更なる細部まで研究の対象が「大」から「極小」に移行しています。
では経営学はどうかというと物理で例えれば「大」の研究としての組織論が中心です。
経営を形作っている個々の人の個別の動き(仕事そのもの)の普遍性を捉えるレベルまでには残念ながら到達していません。
BPRや裁量労働制は、不適切な表現かもしれませんがゴロッとした、大ザックリな仕事の捉え方という点では、まさしく物理で言えばニュートン力学のようなものです。
しかし、そのBPRや裁量労働制と言われている仕事の内部を見ていくと、既に述べたように各自が決める要素(はじめや質など)と誰かと決める(社会的・組織的)要素(おわりや量など)からどんな仕事も誰がやる仕事(普遍的)も成り立っていることが分かります。
社会が高度化してきているのにも関わらず、旧態依然とした手法で対処できる状態ではなくなって来ているのは明らかです。
物理学のように一歩も二歩も前進する事が急務です。
たとえば、現場の情報をBPRや裁量労働制の概念では解決はおろかその原因すら把握できないような事件が続発しています。
去年の暮れにカレンダー業界はとんでもない状態にありました。
それは、11月31日まであるカレンダーや大安と仏滅などがめちゃくちゃなカレンダーや1月、2月などの月表示を英語にしたのはオシャレでしたがスペルの間違いが多発したりなどです。
似たような事例は出版業界でも発生しています。
なんと驚くべきことにパソコンの翻訳ソフトで翻訳した文章がそのまま印刷され書籍として店頭に並んでしまいました。
即刻気づいて回収したようですが、ありえない出来事です。
実はみなさんも少なからず経験していると思います。このありえない出来事に。
つまり、日本中で仕事の腕前が急速に落ちているという事実です。
従前では考えられなかったミスやトラブルまみれの日本といっても良い状態です。
この状態をBPRや裁量労働を標榜する人たちはどのように説明するのでしょうか?
それは気合が入っていないとか個人の属性の問題だと片付けられそうです。
この問題の解決の緒は、組織に目を向けるのではなく、個人に目を向けない限り見出すことは困難だと思います。
つまり、各自の仕事の力量が急速に劣化してきている。
または社会の高度化に追いつけなくなって来ているという、大変重要な問題です。
これを解決するには、個人のレベルでどのように仕事が処理されているかを普遍的に捉えない限り難しいといえます。
また、モノづくり現場での成功体験をそのままホワイトカラーの現場に持ちこうもとするのもニュートン的な仕事の捉え方のせいだろうと私は思っています。


 

<自律労働制への移行>

従来より仕事術やタイムマネジメントは経営学のひとつのジャンルとしては認識されていません。
少なくとも経営学者さんは我々仕事術のコンサルタントを蔑視しているところさえあります。
事実、某大学のトヨタ生産性方式の著名な先生と講演をご一緒させていただいたときも、講演前の名刺交換で「ああ仕事術のコンサルねぇ」といかにもバカにしたような挨拶だったので、その場で思わず大人げなく喧嘩を売ったこともあります。
しかし、理解して下さる方々もいます。
組織論がご専門の専修大学元経営学部長の加藤茂夫先生は当方の理論をよく理解してくださり、営業のようで恐縮ですが、この度、仕事術と組織論を融合させた共著を白桃書房から出すことになりました。
タイトルは「良い経営者、できる管理職、育つ社員」です。
この共著を足がかりに、仕事術、タイムマネジメントを経営学の大事なジャンルとして位置づけるのが私の役目と覚悟しております。
さて組織的に仕事を捉えるのではなく、ひとりひとりの個人がどのように仕事をしていて、そこでの普遍的なしくみを捉えることがこれからはますますというか絶対必要になると述べてきました。
このひとりひとりのレベルで仕事を見るということでは「裁量労働」という言葉自体は合致しているように思いますが、その中身については既述のとおり問題だらけです。
そこで厚生労働省のホームページに別の表現がされていました。
「自律的で自由度の高い・・」という表現がさらっとされていましたが、私はこの自律的に仕事をするということこそが大事な取り組みだと考えています。
ところが裁量労働制の具体策としてのフレックスタイムは一見自律的ですが、個人にとっては都合がよく見えますが、逆にチームの意思疎通に障害が生じたりで決して生産性が上がる取り組みではないように思います。
個人の力量と組織の環境のなかで生産性は規定されることを考えれば、成果がでない理由はご理解いただけると思います。
この取り組みと真逆な取り組みもあります。「水曜ノー残業ディ」です。
これには個人の自律的という要素は皆無です。
やはり、この取り組みも個人も組織も幸せにはしていない取り組みです。
ではここで「自律労働制」を定義したいと思います。
この定義をするにはひとりひとりの個人の仕事に着目し、すべての人がやるどんな仕事にも共通する仕事の普遍性からのアプローチが必要です。
それは既にご紹介したとおり仕事の「はじめ」や「質の選択」などの個人の岸にあるマネジメントの要素を各自が管理するということになります。
もう一方の組織の側からのアプローチは仕事の「おわり」や「量の決定」などの組織の岸にあるマネジメントの要素の運用のルールを明確にすることだと思います。
これが出来たときに「自律労働制」は実現し、個人も組織もそして社会も幸せになれることにつながると確信しています。
経営学は仕事を通じて個人も組織も社会も幸せになるための学問だと思いますが、残念ながら裁量労働制を標榜している間は「名ばかり管理者」のような問題は後を立たないだろうと警告させていただきます。
裁量労働を標榜するより、まずは各自が「はじめかた」「質の上げかた」などのひとりひとりにしかコントロール出来ないマネジメント要因の腕前を向上させることです。
と同時に会社、組織は「おわらせかた」「量の増やしかた」などの個人の集合体でる組織でマネジメントすべき要因のルールづくりをすることです。
それが、サッカーでいえば、個人のスキルは高いし、組織的な連動もできるスペインやブラジルのような強いチームにつながると思います。

2011年秋
NPO法人 日本タイムマネジメント普及協会
理事長 行本 明説